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2008.03.31 Monday |
199X年
20代の頃、僕は映画ばかり観ていた時期がある。
当時、失恋してやることが何も見当たらずに途方に暮れていたので、
映画館に通い詰めた挙句、抱えきれないほどビデオを借りてきては、
古今東西のあらゆる映画をもうじき世界が終わるかのような勢いで観ていた。
ウォン・カーウェイ監督の「恋する惑星」に出会ったのもその頃である。
香港の雑踏や混沌とした街が美しく魅惑的で、
それと同時に不思議と心地よさや懐古的な感情が生まれてくる。
かつてあの景色の中で僕は何を見て、
何を感じていたのか、ふとそんなことを思う。
きちんとこの世界の「時のひだ」を汲み取れていたのだろうか。
昼と夜を交互に繰り返しながら回転する地球。
パタパタと数字を変化させていく時計。
デジャヴのように懐かしい感覚。
まるで自己の宇宙の真理を垣間見たような錯覚に陥る。
2008年
ウォン・カーウェイ監督初のアメリカ映画「マイ・ブルーベリー・ナイツ」。
映画初出演で主役を務めるノラ・ジョーンズを筆頭に、
ジュード・ロウ、デビッド・ストラザーン、ナタリー・ポートマンなど、
蒼々たる顔ぶれの豪華キャストで贈る切なくも甘酸っぱいラブ・ストーリー。
「たとえば僕の店でもチーズケーキは毎日売り切れるけれど、
誰もブルーベリーパイはオーダーしない。
でも、それはブルーベリーパイのせいではないんだよ」
恋人の心変わりで失恋したエリザベス(ノラ・ジョーンズ)は、
元彼の家の向かいにあるカフェに出入りするようになる。
その店のオーナーのジェレミー(ジュード・ロウ)と仲良くなり、
ジェレミーは彼女のために毎晩ブルーベリー・パイを残しておくようになる。
しかし、失恋の傷が癒えることのないエリザベスはある日、旅立つ。
あなたに近づくための5603マイルの旅。
ひとつの恋を忘れ、次に進むにはどれくらい距離が要るのだろうか?
ふたりの人間を隔てる距離は見た目には僅かでも、
時として彼らの心はひどく離れてたたずんでいる場合がある。
その果てしない道のりを、時間、空間を巧みに操り、描き出していく。
ストーリーは典型的ロード・ムービーで非常にシンプルだから、
感情の凹凸を求める人にはもしかしたら退屈に映るかもしれないけど、
監督の名を世界に知らしめた独特のビジュアルはため息が出るほど美しく、
音楽、セリフ、カメラワークまでセンスの塊で創られたような映画で、
ラストのキスシーンは近年の映画の中で最も美しいうちのひとつだろう。
僕は最近、面白さというものを疑う必要もあると思っていて、
芸術が大衆に訴えたというのは本質に装飾を加えるわけだよね。
そうでないと大衆を引っ張れないから。
だから、本質を表現している芸術家を大衆は面白くないって思う。
そうすると飾りの部分が凄い力を持ってしまって本質がなくなっちゃう。
だけど、その一方で退屈さというのがもの凄く重要な要素で、
人間は面白さばかりをすぐ追求しようとするんやけど、
面白くなればなるほど本質から逸れるという側面があるんだよ。
それは映画に限らず、小説も、音楽も、恋愛も、人生そのものも。
現在、僕は人生の紆余曲折を経ていまにいたる。
女の子にふられた数も半端ではなく、恋は必ず終わることも、
すべての恋には賞味期限があることも経験的にわかってしまったけど、
それでも恋は素敵な体験で人は他人を通して自分を知るのかもれないね。
春は恋が始まる季節でもある。
あなたが石をひとつ水の中に投げ込む。
するとその石は最短距離を通って水の底に落ちる。
あなたは何もしない。 あなたは待つ。
石が何もせず、自分で動かず、水の中を落ちて行くように、
あなたはこの世界のものの中を通り抜けていく。
あなたは目標に引き寄せられていく。あなたはそれに身を委ねる。
あなたは目標に逆らうようなものは何も自分の心の中に入り込ませない。
迷子になったときは動かないでじっとしていることだ。

20代の頃、僕は映画ばかり観ていた時期がある。
当時、失恋してやることが何も見当たらずに途方に暮れていたので、
映画館に通い詰めた挙句、抱えきれないほどビデオを借りてきては、
古今東西のあらゆる映画をもうじき世界が終わるかのような勢いで観ていた。
ウォン・カーウェイ監督の「恋する惑星」に出会ったのもその頃である。
香港の雑踏や混沌とした街が美しく魅惑的で、
それと同時に不思議と心地よさや懐古的な感情が生まれてくる。
かつてあの景色の中で僕は何を見て、
何を感じていたのか、ふとそんなことを思う。
きちんとこの世界の「時のひだ」を汲み取れていたのだろうか。
昼と夜を交互に繰り返しながら回転する地球。
パタパタと数字を変化させていく時計。
デジャヴのように懐かしい感覚。
まるで自己の宇宙の真理を垣間見たような錯覚に陥る。
2008年
ウォン・カーウェイ監督初のアメリカ映画「マイ・ブルーベリー・ナイツ」。
映画初出演で主役を務めるノラ・ジョーンズを筆頭に、
ジュード・ロウ、デビッド・ストラザーン、ナタリー・ポートマンなど、
蒼々たる顔ぶれの豪華キャストで贈る切なくも甘酸っぱいラブ・ストーリー。
「たとえば僕の店でもチーズケーキは毎日売り切れるけれど、
誰もブルーベリーパイはオーダーしない。
でも、それはブルーベリーパイのせいではないんだよ」
恋人の心変わりで失恋したエリザベス(ノラ・ジョーンズ)は、
元彼の家の向かいにあるカフェに出入りするようになる。
その店のオーナーのジェレミー(ジュード・ロウ)と仲良くなり、
ジェレミーは彼女のために毎晩ブルーベリー・パイを残しておくようになる。
しかし、失恋の傷が癒えることのないエリザベスはある日、旅立つ。
あなたに近づくための5603マイルの旅。
ひとつの恋を忘れ、次に進むにはどれくらい距離が要るのだろうか?
ふたりの人間を隔てる距離は見た目には僅かでも、
時として彼らの心はひどく離れてたたずんでいる場合がある。
その果てしない道のりを、時間、空間を巧みに操り、描き出していく。
ストーリーは典型的ロード・ムービーで非常にシンプルだから、
感情の凹凸を求める人にはもしかしたら退屈に映るかもしれないけど、
監督の名を世界に知らしめた独特のビジュアルはため息が出るほど美しく、
音楽、セリフ、カメラワークまでセンスの塊で創られたような映画で、
ラストのキスシーンは近年の映画の中で最も美しいうちのひとつだろう。
僕は最近、面白さというものを疑う必要もあると思っていて、
芸術が大衆に訴えたというのは本質に装飾を加えるわけだよね。
そうでないと大衆を引っ張れないから。
だから、本質を表現している芸術家を大衆は面白くないって思う。
そうすると飾りの部分が凄い力を持ってしまって本質がなくなっちゃう。
だけど、その一方で退屈さというのがもの凄く重要な要素で、
人間は面白さばかりをすぐ追求しようとするんやけど、
面白くなればなるほど本質から逸れるという側面があるんだよ。
それは映画に限らず、小説も、音楽も、恋愛も、人生そのものも。
現在、僕は人生の紆余曲折を経ていまにいたる。
女の子にふられた数も半端ではなく、恋は必ず終わることも、
すべての恋には賞味期限があることも経験的にわかってしまったけど、
それでも恋は素敵な体験で人は他人を通して自分を知るのかもれないね。
春は恋が始まる季節でもある。
あなたが石をひとつ水の中に投げ込む。
するとその石は最短距離を通って水の底に落ちる。
あなたは何もしない。 あなたは待つ。
石が何もせず、自分で動かず、水の中を落ちて行くように、
あなたはこの世界のものの中を通り抜けていく。
あなたは目標に引き寄せられていく。あなたはそれに身を委ねる。
あなたは目標に逆らうようなものは何も自分の心の中に入り込ませない。
迷子になったときは動かないでじっとしていることだ。

(画:ノラ・ジョーンズ)



















